[4] 嘘でもいいからデータがほしい私たち?

『食品被害を防ぐ事典』(藤原邦達著 農文協 45ページ以降)に、動物実験の問題点がまとめられていたので、引用させて頂きます。(丸数字を文字化けしないよう、(1)のように変えてあります。強調も私です。)

8 許容量の考え方

 (1) 許容量の概念とその問題点

 一般に一日摂取許容量、ADI(Acceptable Daily Intake)や一日摂取耐容量、TDI(Tolerable Daily Intake)として示される慢性毒性での許容水準を示す閾値が食品衛生学的な安全性の指標として使われている。いうまでもなくこれらの指標は化学物質の毒性の程度を示す尺度として、いいかえると実際的な摂取許容量の目安を示すものとして尊重されねばならない。

 しかしながら一般にはADI信仰とでもいうべき固定的な考え方があって、許容量以下だから問題はない、などとして、国際的な食品添加物に関する専門家の委員会であるJECFA(Joint
ExpertCommittee on Food Additives)が定めたADIを絶対視するような風潮があることには問題がある。

 ADIはあくまでも学問的な約束事に基づいて定められた数値であり、基本的につぎのよ うな問題点をかかえている。

(1)動物実験で最大無作用量(MNEL=Maximum No Effect Lebel)を定めるが、実験動物の化学物質に対する感受性は前述したように種差によって約一〇〇〇倍もの幅で相違していることがわかっている。したがって選ばれた実験動物によって大きく異なるMNELのどれを採用するかが問題になる。

(引用者注)「前述」とは、ダイオキシンの慢性毒性を示す耐容量はモルモットとハムスターとで5000倍も異なるという例のことをさします。「毒性を動物実験から外挿することには基本的に困難な問題があることを意味している」とも述べられています。

(2)MNELは実験の条件で異なった数値が得られる。飼料の組成差、飼育環境が大きな影響を及ぼす。たとえば運動の負荷によって、明暗所に置くことによって、あるいはひとつのケージ内に一匹あるいは複数匹飼育することによって、そして同じ実験動物でも系統差によって実験結果が大きく変動する可能性がある。

(引用者注)これは、ネズミ飼いならたやすく想像できることです!

 

(3)実験に用いた動物の数が問題になる最終的に統計学的な処理を行なうが、有意差のレベルが異なってくる。実験動物一〇〇匹には発ガンが見られなかったが、もしも一〇一匹を飼育していたら最後の一匹に発ガンが見られたかもしれない。

 

(引用者注)おそらく、水俣病研究において、400匹目にしてやっと水俣病に似た症状の猫を作り出せたことなどを指しているのではないでしょうか。

 

(4)最初に見出される症候が最も重要なものとは限らない。複数の症候が飼育期間中、つぎつぎに多様に出現するが、現状ではその投与量で最初に見出された症候に注目してMNELが決められている。

(引用者注)ここで、PCBを投与したラットののさまざまな症状についての表が提示されています。「これらのどの症候、あるいはどの影響を問題にするかによって、最大無作用量の数値は大きく異なってくる」とも述べられています。

(5)症候、あるいは影響を組織学的に、あるいは生化学的に認知する場合の研究者の主観的な評価と判断のあり方が問われる

(引用者注)どこかで聞いた話です(笑)。

(6)複合影響は当然考慮の対象にされていない。たとえば発ガン物質のプロモーターとしての閾値を求める際には、イニシエーターとなりうる化学物質との共存下での検証が必要であると思われるが、そのような実験は普通行なわれない。

(引用者注)行っても、より実験の条件等で変化する不確実な部分が増すだけではないでしょうか。

(7)その化学物質の使用、摂取、作用条件の相違を問題にする必要がある。たとえば食品添加物と農薬、ダイオキシンとでは大きな相違がある。

(8)動物実験の結果を人に当てはめる場合の方法論に問題がある。実験動物によって異なるMNEIのどれを採用するか、という場合、現状では動物種差、実験条件差、人の個体差、人と実験動物との生活条件の相違などを一律に安全率をかけることによって解決しようとしているが、適切な安全率の大きさを決めるための理論的な裏付けがない。現状では、「慣例的に」一〇〇分の一あるいは一〇〇〇分の一を用いることになっている。

(引用者注)慣例だった、は裁判において常に言い逃れの手段ともいえるのではないでしょうか・・。

急性毒性などでは人の発症量が推定できる場合があるが、慢性毒性などでの人の発症量を知ることは不可能に近い

(引用者注)実験推進派が、いつも青酸カリを例に出すのはなぜか、ここでわかります。青酸カリは、「推定できる場合」にすぎないにもかかわらず、急性毒性と、慢性毒性、もしくは薬の微妙な作用といったものを混同させる論法のために使用されます。「推定できる場合がある」からといって、「かならず推定できる」わけではありません。哺乳類にとって激しい作用のある毒物では動物種の壁を越えて同じ作用があることもあるわけですが、もっとより微妙な作用になればなるほど動物と人間が同じとはいえなくなることをさしています。

ADIを一定の許容水準の目安にすることは現状では最も妥当なリスク評価の仕方であろう。しかし以上に述べたような、ADIを決定する過程で認められた多数の問題点を正しく認識して、ADI万能主義に陥らないことが肝要である。とくに次項の複合影響の所在を正しく意識しておくことが必要である。

 (引用者注)別にこの本の著者は、実験反対派でもなんでもありません。名誉(?)のために付け加えておきます! どういう考え方で対応していけばいいのかはぜひ本をお読み下さい(沢山引用させてもらってしまったし(^
^;)。

ちなみに「次項」では、

重要なのは、これらの合成化学物質は実際には動物実験のように単独、単品で摂取されて作用しているのではなく、私たちの体内に、複合的に取り込まれて、しかも天然毒物や生理的な代謝過程で発生する活性酸素のような有害成分との複合作用が行なわれているという事実があるということである。(略)生体内で実際に発現しているであろう複合作用は外因性の、細菌によってつくられる毒物、天然毒物、人工化学物質などと、内因性の、生理的に体内で発生する毒物などの全般について考慮されねばならないが、このような事象を実験的に検証することは不可能に近いことは明らかである。

と述べられています。

 それにしても、もし動物実験が虚偽を証明するものであるならば、社会にとって有益・妥当なものとはたして言えるのでしょうか? 

 
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