『世界屠畜紀行』(内澤旬子訳 解放出版社)

えーっ、もっと「楽しい」屠畜~っ!?と、少々タジタジしながら読み始めましたが、技術的なところがけっこう詳しいし、割と必読の本だと思います。(って、アタシに言われたくないだろうな、ウチザワサン)

つい先日、「日本では屠殺批判みたいなことは差別につながるという意識があるでしょ?」とある人に言ったら、「なんで?なんでなんで??? 動物がかわいそうって言ったら、何で差別になるの??? 関係ないんじゃない??」と逆に問い詰められて、困ったことがありました。(もちろん日本生まれ日本育ちの日本人)

説明しようにも、意外と納得してくれないというか、論理的説明でできるものではないことに気づき、「あれあれあれっ??おかしい、日本ではわかってもらえそうな話なのにー!?」と思っていたのですが、この本を読むとやはり「あーやっぱし世界を見れば彼女の論理で問題ないんだー」という感じ。他の国では屠畜はどう思われているのかということも聞きまくっていて面白いです。

それで、この本を読んで、ひとつ私もびっくりしたことがありました。「殺す」というと、悪意を持って殺害することをイメージさせると書いてあって、えええっ、そうなの!?単に殺すことをさすんじゃないの!?!?と思ってびっくり……。

確かに、「風車が鳥を殺す」といった表現を(事実なんだし)英語の直訳で書いたら、ものすごく過剰反応をされて驚いたときがあったので(これは今でも何でなのか今ひとつわからないけど。風車LOVEな人?それか鳥を食べることに何か罪悪感でも?)、日本人が「殺」という文字に異常に反応すると言うか、文字を見るのも嫌なのかもと思わせる忌避感を持っているのはなぜなんだろう?と思っていたので、ひとつの回答を見た気持ちがしました。

確かに日常、「殺す」ということが話題にのぼるのが、殺人事件のことだけだし、仕方ないのかな…(あれ、でもどうして人を殺した話に出てくる「殺」は平気なのだろう? この場合は悪意があってほしいからいいのか……)

「屠畜」というと「と畜場法→行政用語→一般的でない」という印象だったけど、やはり「殺」の文字への忌避感に合わせたほうがいいのでしょうか。「隠す→一層忌避感増大」という悪のサイクルもあるような気がするけど、仕方ないのかな。(ただ、「と畜」ってひらがなにした場合、なんのことかわからなくなっちゃう……。これってもともと「and」の意味の「と」とまぎらわしいのが使いづらいところなのですが。) 

この本ではもちろん動物愛護(というか、アニマルライツとか、もうちょっと範囲を狭めて表記すべきことだと思うけど)は敵ですが、たぶん屠殺という作業に関心があって実際見てみたいと思っているのは、普通に肉を買っている人たちより私たちなんじゃないかな~。

ウチザワさんも、犬肉とペットのところで「考えていると頭がごちゃごちゃしてきちゃう」といったようなことを書いているけど、たぶん殺すことへの忌避感というより、生きている、個体個体のことをもっと考えたいということなんだよね~ 上野さんみたいに科学者の肩書きがないから擬人化としてゴミ箱に入れられちゃうのが悔しいけれどね。