ただの理科教育シンポならわからなくはない内容だけど、代替法をテーマにしたシンポではありえない内容だったと思います。
日本では代替法推進勢力に、本当に動物実験をなくしたい人(動物の運動が背景にある人)が、若手以外にいないから仕方ないけれど、これではお金が集まらないのも仕方ないのでは…
はっきり言って、動物実験代替法学会は、人体実験代替法学会に名前変えるべきだと思う。動物のためにやってる学問だというベクトルばっかり入ると、ショウジョウバエも動物実験だとか、話がおかしい方向へいくよ(別に昆虫も動物実験なのは間違いないけど、揚げ足取りモードはよくないね)。
動物実験は、「人体実験の代替法」なのだから、その代替法の本質は、つまりは人体実験の代替法。そもそもスタートに動物を使う方法しか考えなかったのが間違ってると思う。恩恵を被るのは人間だ!と、もっと宣伝しないとお金も人もあつまらないと思う…
市民がすることは他にあるとして。(もちろん動物のことも大事だから)
代替法のアイデアを公募するのは面白いけど、対象高校生以下にするのはやっぱりハードル高すぎかな。先生の指導色がかなり強くなってしまうし…(そんなこと言ったら普通の学会発表だって指導教官の色そのままなのかもしれないから、そういう文化の中では許されちゃうのかもしれないけど)
相手が変わらなければ教育ではないという、超洗脳システムの中で動物実験が行われているのはよくわかりました。

ここまで一旦書いて、またぐるぐる考えてしまったのだけど、文系の学部では、学生の視点や考え方までを教官が変えさせようとすることはなかったのではないかと思ったのでした。違うかなー。わからないけど。少なくとも私の行った学部ではそのようなことはなかった。
論文を書くための指導はあっても、「アナタの言いたいことを論理だてるには、これこれこういう資料はないのか、これは調べたのか、こういうことも言わなければ通じないのではないか、こっちから切ったほうがいいのではないか」などなど、あくまで方法論をサポートするのが教官の仕事だったような気がするんだけど…。それすらすっとぱして勝手に卒論書いた私ですが(汗)…でも教官はアニマルライツなんてまったく支持してなかったけど、それでも私はアニマルライツについての論文が書けてA+の評価で卒業できたわけだから、思想的な部分にはまったく無介入だったのは間違いないと思います。(学部の卒論程度じゃ、論文とも言えない代物になるのが普通だと思うから、その程度の指導になるのは当然かもしれないけど。)
今日思ったのは、文系の人がバラバラの個性を持っているように感じられるのに対して、理系の人が割と金太郎飴的に感じられるのは、何かその教育方法においても強烈な同一化の力が働いているのでは……ということです。(関心があるところが同じだから似てるだけなのかなー? 文系を動物園的と例えるなら、理系はマウスケージ的という感じ。)
理科だけに「離れ」現象があるのかどうかは怪しいところだと思いますが(国語だって歴史だってそんなに興味もたれてるとも思えないんだけど?)、自分の高校時代を思い出すに、理科も数学も実は成績よかった私(ホントです)が、全くそちら方面には進路として関心持たなかったことからも、何か魅力ないところがあるのは確かなんじゃないかと思います。
(生物は、カイコを切り開く授業があるために、真っ先に選択から消去したっけか、なんて話は前にも書いたかも。)